高山城跡(昭和20年2月22日指定)

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高山城跡(昭和20年2月22日指定)
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高山城跡
高山城跡

高山城跡案内板
高山城跡案内板
肝付氏と高山城

 高山城跡は、肝付町新富本城にあります。
 伴兼行が安和元年(968 年)薩摩掾(さつまのじょう)(注1)に任命され、孫の兼貞が長元9年(1036年)大隅国肝属郡弁済使となり、その子兼俊が肝付に移り住み肝付の姓を名乗りました。

 本城の築城年代は不明ですが、天正元年(1573年)島津氏に敗れ、天正8年(1580年)阿多(現在の南さつま市金峰町)に移封されるまでの18代にわたって肝付氏の本拠地でした。戦国末期の当主肝付兼続は、肝付家の領国を最大(十数万石)にまで広げ、日向の飫肥城を制圧するなど、ほぼ大隅半島を制するほどの勢力を誇っていました。

(注1)掾:日本の律令制四等官(地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん))の三等官のこと。

高山城の特徴
 高山城は、中古以来の騎馬戦を主とする攻防戦(山岳戦)には理想的な天険の城砦をしています。城の正門は西に向かい、城内を本丸、二の丸、三の丸、馬乗馬場、升形等空堀によって数区に分かれています。

 西方に大手門、南方に搦手門をつくり、その跡が現存しています。三の丸は田地となり、三の丸の馬乗馬場は現位置を原形のまま保存し、本城集落センターの後方に東西にのびて当時の面影を偲ばせます。本丸はほぼ原形をとどめており、土塁の跡も分かります。二の丸の下段には湯沸場があり、崎山に石落し、逆茂木(さかもぎ)の古名も残っています。
 往時の総面積は50余へクタールの広さであるといわれています。

 要害地には、大小いくつもの支城を配置し、これらの各城塞はお互いに相呼応するために連携を保っていました。また、烽火(のろし)による合図方法もとられていたということです。城内の大来目神社は大宰大監兼行が氏神と軍神を崇祭し、城の鎮神としたという説があります。

見学について
・基本的にいつでも見学できます。


アクセス
 高山城跡へのアクセスはこちらをクリックしてご覧ください。